台湾食品事情あれこれ その3 サトウキビの野生種を探せたか!! 技術士(農業部門) 鈴木 修武 (
過日、10日間にわたって5度目の訪台をした。調査目的は旗山市の郊外にサトウキビ野生種の生育地域の河川を訪ねること。コロナ前に旗山市の隣街の美濃に行ったときに、この川の周辺にあることを知った。野生種があるのは、自然が保護された環境にやさしい地域とともに、気候的に砂糖の栽培に適しているからだと思った。
1.野生種と砂糖産業の現況はどうか
台南から乗り合いバスで東方に約1時間40分の山間にバナナの産地の旗山市があり、ここを拠点とした。旗山はかって鉄道があり積み出し駅で、砂糖とパイナップル缶詰などの集積地であった。旧駅舎に蒸気機関車と客車が復元されており、客車でコンパニオンの説明とVRを見て、砂糖とパイナップル畑を蒸気機関車が走る映像から昔の盛況を知った。また、残っている旗山の老街は観光スポットであった。事前に情報を得ていけばよかったが計画が悪く、研究所を訪れるのが後になった。民宿のオーナーは日本語ができず、宿泊仲介業者の手違いと私の交渉下手でタクシーをチャアターができなかった。そこで、宿の近くの河川敷で野生種らしき写真を撮った。サトウキビを研究している研究所に行き判定してもらったが、ペニセダム(アフリカ原産イネ科チカラシバ属)であった。紹介先の農研機構の種子島センターの専門家は、訪問時期は秋が良くサトウキビの白い穂で区別できると言う。対応してくれた研究員は黒砂糖と関連商品の商品開発をしており開発談義をした。砂糖関連製品を使った最大のライバルは日本企業である。例えば白黒の砂糖でも日本製品は品質が優れて均一であり商品イメージが良い。また、開発しても台湾人口約2300万人と少なく市場規模がないと嘆いていた。台湾の製糖市場は商業的な規模の工場はなく7年前に閉鎖されたと仲間の砂糖技術士が言っていた。話を聞くと小規模の製糖工場が未精製の黒糖を作っており、その開発をやっている。今年の展示会に日本を訪問するのでまた会うことになった。
2.台湾の戦前戦後に砂糖製造をした背景はなにか。
戦後台湾から引き揚げて来た恩師や知人達が台湾について語っていた。その中で印象に残っているのは砂糖の話題である。父の知人で昔の台湾製糖に勤めていた人の話を父からよく聞いており、送られてきた黒糖を食べてしまい怒られたことを覚えている。いつか台湾を訪問したいと思った。旅行すると戦前戦後の砂糖工場が残っており、その中で旗山と高雄2工場を見学した。気候的には充分、野生種の育種栽培できると考えるのは理に適っている。第4代の台湾総統児玉氏が産業振興には砂糖と思い、新渡戸稲造を殖産部長に任命した。海外に視察調査して明治34年(1901年)に「糖業改良意見書」を提出した。(歴史街道2018.5PHP出版より)サトウキビの品種改良、培養法や灌漑、開墾などの農業施策、製糖振興のための工業的や行政的な施策、技術者の教育的な施策まで総合的に書いている。その結果、約3.5万トン(1901年)約12万トン(1909年)約27万トン(1921年)約100万トン(1935年)と最盛期には全国で約20工場が稼働していた。戦後の1970年代まで台湾では砂糖の輸出が花形であった。
3.台湾の統治の素晴らしい施策があったから砂糖産業が繁栄した。旅行すると親日家が多く、道を尋ねても親切に教えてくれるし同行案内もあり有難かった。歴史を調べると、日本の施策が良かったと考えられる。台湾の歴史は、16世紀まで原住民が暮らしていて、文字の歴史がない。スペインやオランダが一部に入植し、城を建っており、清国も統治した歴史があるがあまり力を入れなかった。日清戦争で日本が統治したが、はじめはあまりうまくいかず、児玉氏から改善がされた。第二次世界大戦に敗戦して、中華民国が中国本土から来て政権を作った。色々と調べて見ると日本時代が一番民衆の支持を得られたと考えられる。その施策は①経済政策(殖産興業)農業分野(ダム建設と水田稲作、サトウキビの栽培と砂糖製造、パイナプル等の缶詰製造等)、金や石炭等採掘と製造②教育制度の導入(小学校から大学まで)③インフラの整備(鉄道、道路、港湾の整備)④公衆衛生と医療体制の育成と整備 など欧米列強と違う施策をして、日本本土の一部、内地の延長と考えていた。それらが成功したと思われる。
明治からの統治下の台湾施策を知って、現在の日本の農業や食品産業に視線をむけると国民にわかる施策がなく、食糧安全保障観点や地球温暖化による国内、諸外国の災害から学び、また、今の耕作放棄地、後継者問題が心配で日本国の将来を危惧している。